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真と喜と美とは人間の文化活動を保証し、かつ、刺戟してやまない価値理念である。
幸福や健康や才能や富や快楽や権威や名誉や便益などの一切が備わった人物がいても、もしその人が
真・喜・美の追究を捨て去るならば、その時点から獣に墜ちてしまう。

なぜか。

幸福や健康と並べて列挙した一切のものは、その具体的な状態は千差万別であるにしても、多くの高等動物の生態に備わった
自然的真(たとえば性格で誤りのない信号的伝達)
自然的喜(母親が仔に対して示す情愛や養育のための犠牲的行動など)
自然的美(走行する姿態の見事さや羽毛などの色彩)

認められても、それらの価値を自然的な水準を超えてさらに磨き上げて作り出してゆく営みもなく、また発見されたり作り出されたものを前にしての内的な喜びもなく、さらに、そのような営みや喜びを刺戟する真、喜、美という理念の自覚は認められない。
それらは完全に人間の特色であり、これあるがために、人間には、文化活動が維持され、世代の交替しかない動物と異なって、歴史が成立しているのである。

科学の発展の原動力は、未知のものへの好奇心であったり、実際的な要求であったり、名誉欲であったり、種々様々だろう。
だが、その最終的な目標が、ちょうど医学のそれが「患者のために」あるように、「人類のために」というところにないのなら、人類の知的営みとしては、自己破産せざるを得ない。

そして科学は、まさにそこに統合化の視点をもっているはずなのである。

具体的なプログラムとしては、「分析と結合」という「科学的」な思考法の前提を疑ってみる作業が必要であろう。
それは「分析的である」ことを否定するのではなく、それ以外の自然現象への迫り方を「非科学的」として
頭から峻拒してしまわない、という言う身である。

全体的な現象把握、現象を現象としてそのままとらえる、という方法を、何処かで探さなければならない。
というよりも、その発想を、すべての「分析」の出発点にしなければならない。

「分析」は科学の一つの手段であっても目的ではないからである。
目的を回復するための新しい発想が切に望まれている所以でもある。

このように考えてくると、昨今もてはやされる「学際的」研究も、それが単に
ある専門領域と別の専門領域との学者が共同研究をするとか、ある分析レヴェルと
それに隣接する分析レヴェルとの間に、新しい分析レヴェルを設ける、といったような
考え方からは、重要な発展を期待することは出来ない。

要は、「人類のためにという科学の目的を、全体的現象の把握のなかに活かすための方法論を知ることなのであって
それこそが学際的研究の特質となるべきであろう。


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